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白魔女の館

母方の祖父

 杖をついていたので、ひ孫達には「杖のじいちゃん」と呼ばれていました。一昨年九十を前に亡くなりました。
 私が十才くらいから結婚するまで実家で一緒に暮らしていました。

 祖母と仲が良く、祖母がスーパーに行くと、迎えにいったりする人でした。
 明治の生まれで戦争には2回行ったとか。中国育ちで中国語が喋れたので、(本人曰く下手だったらしい)通訳などをしていたのか?
 若い頃は曾爺ちゃんが中国でやっていたパン屋(木村屋)の手提げバッグにミッキーマウスのイラストを描いたらそれが大人気になったと嬉しそうにはなしていました。著作権なんて意識昔は無かったのね。

 食べる事、飲む事が好きで、なんでも美味しい美味しいと平らげていました。祖母が料理上手だったので夕方から毎日飲んでいました。料理はめったにしませんでしたが、気が向くと、葛とごまでごま豆腐を作ったりしていたのを覚えています。

 事務仕事が得意でいろんな書類を綴じたりしていたなあ。役所に書類を取りにいったり出しに行ったりするのもめんどくさがらず引き受けてくれたし。筆まめで私の娘つまりひ孫が葉書を出すと、いつも丁寧に返事の手紙をくれました。あと、ぬいぐるみを買ってくれたり。

 私がカメラを落として壊してしまったとき、わざわざ東京まで修理に出しに行ってくれました。

 夏休み、私達姉妹をバスを乗り継いでプールまで連れて行ってくれた事がありました。そのとき赤フン←赤いふんどしをはいて、その上に白い海パン←海水パンツつまり水着。を履いていたのがキョーレツな思いでです。じいちゃんナイス。注目を浴びていました。
 
 私が20歳を過ぎてからは、夕方「菊水一番絞り」とお刺身なんかで二人で良く飲みました。いつも同じような昔語りをしてくれて楽しかったなあ。

 『オレにはアイヌの血がはいってるんだ。』なんて事もいっていたけど、母は、「またまた~お父さんったら」なんて全然本気にしていませんでしたが、あるときアイヌのドキュメントをみていたらじいちゃんとおじちゃんソッくりな人たちが出て来たので←顔ばかりか声もそっくりだった。もしかしたらホントなのかもといまでは思っています。

 ばあちゃんが亡くなってからおじさんのうちに行ってしまって、会う事もへってしまったけれど、おばさんの美味しい料理に喜んでいたようです。
おばさんが言うには最後の言葉が『ビール』だったそうですから、本物ののんべでしょう。

 いつも鞄に陶々酒が入っていて、何処でも取り出して人にも勧め自分でも飲むのが夫には強烈な印象だったようで今でも良く話しています。
 呑んベの夫を可愛がってくれて集まりのときはいつも傍によんで飲んでいました。

 私はじいちゃんから呑んベの血と事務能力を受け継いだような気がします。


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